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歴 史
h i s t o r y
一千二百余年の間
多くの人々の厚い信仰を集めてきました。
清水寺は天台宗の開祖、伝教大師によって開かれた古刹。
開山以来、一千二百余年の間、清水寺は多くの人々の厚い信仰を集めてきました。
寺の言い伝えによると伝教大師は、唐から帰朝の折り、有明海の東方山中に美しく輝く光を発見されました。
その光を求めて、一羽の雉を道案内にこの山に分け入ったところ、苔むした合歓(むね)の霊木に出会われたのでした。
このうえなく喜ばれた大師は、大地から生えたままのこの樹に一丈六尺(約5メートル)の千手観音像を刻まれました。
そして大同元年(西暦806年)にお堂を建立し、その観音様をお祀りされました。
このお堂が現在の本堂です。本の木で刻まれたお観音さまですから、清水寺の山号を本吉山と言います。










きじ車由来
本坊庭園
千体仏堂
五百羅漢
仁王門
山門(三門)
清水寺本堂
撫で仏
三重の塔
乳父観音
きじ車由来
oriogin of the kigiguruma
伝説で「伝教大師(最澄)が道に迷った時一羽の雌雉が現れ光明輝く合歓の霊木に案内した」とある雉
にちなんだ郷土玩具雉子車(きじぐるま)がある。本吉で最初に雉子車を作ったのは最澄が唐の国から
連れてきた「竹本王」で日本名を竹本翁吉と名づけ清水に住まわせた。
彼の子供が3人出来たので、三件の家を作って分家させた。現在でも三軒家の地名がある。
また、天保時代に25代住職の隆安法印が創案して井上嘉平次が政策したのが始まりという説もある。
明治時代は井上伝次が製作、明治15年には息子の末次が引き継ぐ。明治39年になると福田登三郎が背中に俵3表を乗せた雉子車を製作している。北原白秋の詩にも登場する瀬高のきじ車は、材料にマツやキリをナタ一本で削りながら形成した生地に絵付けを施している。雄と雌とがあり、雄鳥は背中に鞍を乗せ、雄鳥の背中はくぼんでいる。世界玩具展で入賞歴もある民芸品である。

本坊庭園
honbouteien

本坊庭園は諸町時代の作で、作者は雪舟(1420年〜1506年)であろうといわれている。
東南北に山を囲らし心字の池を中心とする庭石の配置、植込み、池にそそぐ暖、急の滝など、自然と人工の美が溶け合い、春夏秋冬いつ訪れても飽きない名園である。
特に正面の愛宕山からのぼる中秋の名月はすばらしく、その月が心字池の写るように工夫された借景式の泉水庭である。
新緑と紅葉の頃はことのほか美しい。
本坊前には大きな銀杏樹があり、紅葉時期には黄色のジュウタンで敷きつめられる。傍らに北原白秋自筆による碑が立っている。「ちち恋し 母恋してふ 子のきじは 赤と青とも そめられにけり」
千体仏堂
sentaibutsudou
柳川藩主田中吉政の家来、林五郎五衛門の娘、操(みさお)は婿養子の婚約者幾之助が宮川右内に船小屋で鉄砲で殺されたのを知り敵討ちを決断。16才の時である。
家を出て10年目元和7年(1621)四国の徳島で宮川右内を探しやっと亡き夫の仇を取った。仇 を取ったのち柳川に帰り、信仰のあった観音堂のある清水の中腹に称名庵を作り住みつき両者の霊を慰めるために千本仏を刻んだ。


五百羅漢
gohyakurakan
釈迦の弟子500人の「自覚」への道を志す修行僧たちの像、それが五百羅漢である。
文化文政(1804年)の頃から大正年間にかけて奉納。
いつの頃からか、心ない者により首がことごとく落とされ「首なし地蔵」と呼ばれていたが、最近になって誰かの手で再び首がつけられ、新しい羅漢の復活となっている。
仁王門
nioumon
延享3年(1746年)、藩主藩民の寄進によって建立された。
右の仁王像は口を大きく開け「阿」を表しすべてのものの発生、根源を意味し、左の像は口を結んで「吽(うん)」を表し、すべてのものの帰着を意味する。
寺院浄域の入り口にあり、仏法を守護する役目を持つ「金剛力士」の像を安置した門で、仁王像の高さは約2.4米ある。
仁王像は、大力を授けるということから身体強健を祈って大きな草鞋を奉納し、又その草履に触れると脚が強くなるといわれている。
